50歳で公務員を退職。人生リスタートして楽しく生きる。

退職後に離婚でどん底 。人生最大のメンタル崩壊から復活 ◆「こうあるべき」を手放し、心地よい50代へ◆ラクして生きると楽しくなる

なにかを手に入れるより、「今、いいかも」って思える日々がうれしい。

明日は七夕ですね。

スーパーの一角に

短冊が付けられた

笹が置かれてるのを見て

「うわー懐かしいっ」と思いました。

 

子どもの頃は

何書いてたのかな?

あんまり思い出せないんですけどね。

 

▶小学生の頃のほろ苦い七夕の記憶の記事はこちら

 

で、ふと考えたんですよ。

54歳、無職、バツイチ独身。

そんな私が

今さら短冊に願いごとを書くとしたら──何?

願いごと、ざっくりすぎ問題

よく自己啓発書に書かれてますよね。

 

「願いごとは具体的に書け!」って。

 

「幸せになりたい」とか

「お金持ちになりたい」なんてのは

 目的地を入れずに

ビを起動してるようなもんで

どこにも着きませんよ、と。

確かに納得ではある。

 

「年収〇〇万円」とか

「海外旅行を年1回!」みたいに

目に見える形で

設定した方が動きやすいのはたしか。

 

でも今の私は

そういう強い

「◯◯になりたい!」っていう願望が、特にない。

 

正確に言うと

そこそこ元気で、それなりに暮らせて

ご機嫌で笑って生きてたい

くらいの

すんごくぼやけた願いしか出てこないかな。

「活動」しないと得られない時代?

酒井順子さんのエッセイ

『うまれることば、しぬことば』

にこんな話が出てきました。

 

今は「活動」しないと、求めるものが得られない時代になった

 

たしかに。

婚活、妊活、終活、あらゆる◯活があって

「手に入れるためには、動かなきゃいけない」

がデフォルト。

 

昔は自然な流れで手に入ったものが

いまは「活動」しないと手に入らない。

 

活動しないと始まらないし

始めたら始めたで

思うようにいかなかったときに

自分を責めてしまったり

プレッシャーになったりする。

 

努力は大切だけど

がんばったのに結果が出なかった時って

ものすごくしんどい。

 

で、私は思ったわけです。

いまの私には

「活動してまで欲しいもの」

がほとんどない。

手にれるための熱量を注ぐほどに

強く欲しい「なにか」はないんだなって。

願いというより「こうありたい時間」

この2日間

暑すぎるのもあって

ちょっとのんびりと過ごしてました。

 

冷凍パン生地でクロワッサンを焼いて

すいかを食べて

コーヒーを飲んで

窓からの景色をぼんやり見る。

 

そして

酒井順子さんのエッセイを読んで

「やっぱり私はこういう時間が、何よりも好きだな」と

あらためて感じました。

 

私が願いたいのは

何かを得ることじゃなくて

「こういう時間が、これからも続いてほしい」

ということ。

 

長野にいた頃ほどの絶景ではないけれど

 ベランダからの空が思ったより青くて

「あ、もうこれで十分かも」

と思ってしまったんですよね。

で、結局、短冊には何て書く?

もし、短冊に願いごとを書くとしたら。

毎日、まったりと。

空とコーヒーと本と、私。

そんな暮らしが

静かに、でもしっかりと続きますように。

 

そんなささやかな願いごとが

今の私にはぴったりかな。

 

願望って、壮大じゃなくていいんですよね。

動かなくてもいい願いがあってもいい

願いごとって

すごくがんばって叶えるものもあるけど

ただ静かに

「こうありたいな」

と思える日常を

そっと願うだけでもいいんじゃないかな、って。

 

それがいまの私の「願い」。

 

来年の七夕には

さて私は

どんな願いごとを書いてるかな〜?

 

それでは〜。

 

 

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